2014年12月30日火曜日

吉村昭『桜田門外ノ変』

コピーライター岩崎俊一氏が亡くなった。
僕の所属する会社でかつて車や住宅など多くのCMにコピーを書いてくれた方である。何度も打合せに同席した。米国テキサスで撮影とC.G.制作を行う仕事があって、そのときはいっしょにステーキを食べた。
広告の世界ではすぐれたコピーライターやアートディレクターが次から次へと生まれてくるが、コンスタントに日本の広告界を代表するコピーが書ける人間はそう多くはない。岩崎氏は永年にわたって日本代表のコピーライターだった。
多くのスタープレイヤーが華々しい経歴を持っている。野球でいえば甲子園常連校からドラフト上位でプロ入りしたり、学生野球、社会人野球でさらに技術を磨いてプロ入りするものもいる。広告の世界でも大手の広告会社や古くから特徴ある制作会社で鍛えられてスターになったものが多い。ところが岩崎俊一氏はそうではない。同志社を出て、地元関西の広告会社に所属し、その後もっと大きな舞台を夢見て上京してきた(この頃のことを以前飲みながら本人から聞いた気もするがあまり覚えていない)。そして努力に努力を重ねて(たぶんそうだろうと思う)、言葉をさがしまわって、ようやく今の地位を築いたのではないだろうか。そんな気がする。
今年最後に読む長編として吉村昭の『桜田門外ノ変』を選んだ。
根回しに、逃亡に水戸藩士たちが全国を駆けめぐる。幕末期の日本が広い国だったことは『ふぉん・しいほるとの娘』『長英逃亡』を読んでもわかる。
高野長英もしかりだが、江戸時代末期はタイミングが重要だった。事変を起こすのはもっとはやかったほうがよかったかもしれない。もちろんこのあたりの彦根藩側とのかけひきは微妙な問題を多くはらんでいるのだが。
通夜を終え、仕事の納会に遅れて参加した。帰りの電車の中でようやく下巻を読み終えた。
岩崎俊一氏はどこか遠い場所に言葉をさがしに旅立ったのだろう。
そんな気がしている。

2014年12月18日木曜日

吉村昭『長英逃亡』

高野長英がいかなる人物であったかなんてまったく興味も抱かずに生きてきた。
吉村昭の小説を読んでいるとときどき姿をあらわすのが高野長英である。いよいよ気になり出したので、『長英逃亡』を読んでみる。
『遠い日の戦争』を読んだときも感じたのだが、逃亡ものは読んでいてハラハラドキドキしてしまう。夜道を歩いていてもつい誰かに尾行されてはいまいかと気になったりもする。テレビ番組のバラエティでテーマパークなどのなかを一定時間逃げ切ると賞金がもらえるという企画をたまに見るが、長英の逃亡劇は全国を股にかけた壮大なドラマである。
もちろん江戸時代の話だから鉄道も車もなく、電話もパソコンも当然ない(むしろコミュニケーション手段があったほうが逃げづらいだろうけど)。ひたすら歩いていくのである。牢破りをした当初は仙台の親分とその子分米吉に助けられ、奥州水沢で母との再会も果たす。このあたりは息詰まる逃亡劇の中で心ふるわせる感動的なシーンだ。この時代から社会には表と裏があった。裏の道をたどることで張りめぐらされた追手たちの網を避けて通ることができたのだ(それでもハラハラドキドキはするんだけど)。
とにかく捕まったら極刑が待っている。逃亡に加担したものたちも重罪だ。長英の逃亡直後に彼を獄に送り込んだ鳥居耀蔵が失脚する。それまで釈放の望みは皆無だったが、情勢が一変する。何も死罪の危険を犯してまで破獄する必要があったのか。こうした運不運も逃亡の精神的環境に微妙に影響を与えているだろう。
名を変え、先進的な藩主伊達宗城の庇護を受けながら逃げ続けた長英であるが、時の経過とともに追跡者の手は緩んでくるように見える(米吉の工作により、長英は蝦夷に向かい、そこからロシアに逃げたとまことしやかにささやかれていたのだという)。大胆にも長英は江戸に戻る。薬品で顔を焼き、人相を変える。青山で生活のため医者をはじめる。
江戸で待っていたのは遠山金四郎だった。

2014年12月14日日曜日

並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』

池袋の東京芸術劇場でテトラクロマット第二回公演「花の下にて」(脚本坂下理子、演出福島敏明)という芝居を観に行った。
演劇にはほとんど関心なく生きてきた。東京芸術劇場で芝居を観るのもずいぶんと久しぶりである。以前ここで観たのは木内宏昌演出の芝居だったと記憶している。
この「花の下にて」は幕末の江戸を舞台に、魂のない木偶の人斬りが事件を引き起こす。芝居を観るのはほぼ素人なので、話の筋を追いかけるのが精一杯でどこがどうおもしろかったかなどという整理もできないまま終わってしまったのだが、いたってシンプルな舞台構成でテンポもよく、観ているものを飽きさせない。
幕末の、世の中の流れを大きく変えるうねりのようなものも随所に描かれている。時代の変化が人々の心に動揺を与えている。この芝居は古い時代を終わらせ、新たな世界を呼び起こす時代の区切りを描いていたのかもしれない。
あっという間の2時間だった。
「いつか心の森で迷ったら言葉の小石を目印にして…」でおなじみの並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』を読む。
並河進は模索している。あるいは迷走を続けている。広告はもっと社会にとって価値あるものになれるはずだ。そう信じて、広告の今に疑問を投げかけた。永井一史との対談を通じて、これからの広告会社がめざすべき方向性を見出す。

>企業を出発点にしたときの広告のありかた。
>NPO、個人、コミュニティを出発点としたときの広告のありかた。
>社会課題を出発点としたときの広告のありかた。

そして社会貢献と広告の融合という森をさらに奥深くさまよい歩く。森のなかで多くのクリエイターに出会い言葉を交わす。出口はまだ見つからない。しかし手ごたえはたしかに感じられる。

2014年12月2日火曜日

吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』

はじめて間近で見た外国人の記憶がない。
小学校にも中学校にも外国人はいなかった。高校生になって毎日のように都心に出るようになると(学校はほぼ東京の中央に位置していた)町や電車の中で見かけることも多くなったがその頃は外国人を見かけることに新鮮な感覚を持てなくなっていた。
うっすらではあるが、幼少の頃、うちに外国人の子どもが遊びに来たという記憶がある。母が結婚する前に銀座のデパートに勤めていて、その同僚がアメリカ人と結婚して子どもを連れて遊びに来た、たぶんそんなことではなかったか。うっすら記憶しているというのはこの話を後日聞いたことで憶えているのか、自分自身の記憶として憶えているのか定かではないということだ。そんな気もするし、そうでない気もする。
その後アメリカに旅立つ叔父を見送りに羽田空港に行ったとき大柄な赤い顔をした外国人を見かけたり、はじめて観に行ったプロ野球の試合で外野手が黒人だったとかその手の記憶はあるが、それもさほど印象強く残っていない。
鎖国政策をとっていた江戸時代に二世(この言葉もずいぶん古めかしいが、当時は「あいのこ」と呼ばれていたに違いない)がいたとしたら、それは相当のインパクトがあったのではないか。それも東洋人ではなく西洋人とのあいだに生まれたハーフである。
吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読む。
当時の長崎ではシーボルトの娘いねだけでなく、多くの混血児が生まれていたようである。残念ながらそのほとんどが早逝したり、子孫を残すようなこともなかったそうだが、いねは娘を産んだ。いねは明治半ばに亡くなるが、靖国神社を見下ろしている大村益次郎にオランダ語を学んだり、福沢諭吉の口添えで宮内庁御用掛になるなど思っているほど遠い昔の人とも思えない。その娘ただは昭和13年まで生きたという。
多くの日本人にとっての「はじめて間近に見た外国人」とはシーボルトの娘なのではないだろうか。